第三海堡は、帝都・東京を防衛するため、第一海堡(1890(明治23)年竣工)、第二海堡(1914(大正3)年竣工)につづいて、1921(大正10)年に東京湾口に建造された海上要塞である。1892(明治25)年の着工から竣工まで30年に及ぶ歳月と249万円(現在の価格で約140億円)という巨額の工費をかけ、幾多の人命を犠牲にし、大変な苦労をして建設されたが、竣工からわずか2年後、関東大地震によって倒壊し、軍事施設としての本来の目的を全く果たすことなく海底へ沈んでしまった。

 第三海堡の建設地は潮流の激しい浦賀水道に位置し、水深が約39mもあったため屈指の難工事となったが、当時の工兵技術の最先端をもって築造された。その面積は34,000F、15cmカノン砲4門、10cmカノン砲8門の大砲と探照灯などが装備され、仙台湾の野蒜築港と並び、文明開化期における壮大な土木事業のひとつに数えられる。

 大正12(1923)年9月1日に起きた関東大地震により、水深の浅い第一海堡と第二海堡は中程度の被害だったが、水深の深い第三海堡は壊滅的な被害を受け、コンクリ−ト構造物はほとんどが海中に転落あるいは傾斜した。軍事施設・建物は不等沈下対策が良く行われていたため亀裂一つ生じなかったが、施設の大半が水没して機能を失い、大砲は撤去された。
 その後、第三海堡が修復されなかったのは、大砲の技術が進歩し、海上の砲台が不要となったからである。しかしその設計・施工の体験は、その後の日本各地の港湾で築造された人工島の建設などに先駆的な意義を残した。

  今は暗礁と化してしまった第三海堡は、浦賀水道航路に接しているため船舶の座礁事故ばかりでなく、これを避けようとする船同士の衝突など事故多発の要因となっている。とくに近年、1日平均700隻以上の船が航行する世界有数の過密航路となったうえ、タンカーやコンテナ船の大型化に伴い危険度は増すばかりとなった。
 そこで、国土交通省では、2000年12月より7か年かけて、東京湾口航路整備事業の一環として第三海堡の撤去工事に着手、大型船が通航するのに必要な水深−23mまでの土砂やコンクリート塊を撤去し、安全な航路の確保を目指している。
 工事にあたって、コンクリート塊は魚礁などの資材として有効活用を図る一方、コンクリート構造物のうち特徴的なものや学術的に貴重と考えられるものは陸揚げし、展示・公開している。
 以下の写真は、横須賀市浦郷町の「追浜展示施設」を見学し時に撮影したものである。


第三海堡と浦賀水道航路(国土交通省発行パンプレットより転載)


CGによる第三海堡復元図(国土交通省発行パンプレットより転載)

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